生まれましたよ、春が。
●早速ヒヨドリが蜜を吸っていました。
臨時ニュースを申し上げます。(昭和のラジオは、この口調から始まりました)
今日(3/27)、いつもの散歩コースで、桜が咲いているのを見つけました。
でも、このままいけば週末開花も期待できそうです。
以上、東京郊外、多摩の里からお伝えしました。
NHK。こちらは第一放送です。
ちょっとこちらを意識しています。
●ツバメ
橋の下ではかわいいツバメのひなが育っています。
まだ目が開いていない?
電柱の上では、カラス夫婦が巣作りに励んでいます(左)。
資材運びは彼の役目(右)。
そうか。サクラを見てから北へ帰るんだ。
ディズニー長編アニメ再発見―18
ディズニー< はじめて.>ものがたり―4
ディズニー長編アニメ、初めてのヒーローは、アラジン。
●「ディズニー長編アニメ再発見」の過去記事は、画面左袖の「マイカテゴリーから選んでクリックすると、一括してご覧いただくことができます。
●でも、今回の主役は「ターザン」に登場していただきます。
●「おとこ」が主演のディズニー映画はたった3本。
この「ディズニー長編アニメ再発見」は、2000年までに制作されたCG作品を除いた作品群、つまり最初の長編「白雪姫」(1937)から「ターザン」(1999)まての32本を対象に書いています。
最近は50歳を過ぎても「女子」だそうですが、一般的に女性は成長過程によって「女の子」「女子」「女性」のように呼ばれてきました。ディズニー長編アニメの多くはいわゆる「女の子」が主人公で、「女の子」から「女子」へ、「女子」から「女性」への成長過程が描かれて人気を博してきました。
では、男子が主人公の作品はなんだろう?と探してみたのですが…。
ダンボ、バンビ、ロビン・フッドをはじめ、「ニューヨーク子猫ものがたり」のオリバー、「ライオンキング」のシンバは男の子ですが、みんな動物。
数少ない人間では「王様の剣」でのちにアーサー王になるワート少年、「コルドロン」の豚飼い少年ターランがおりますが、どちらも主役を務めるほどの役割を持たない子供です。
では「コルドロン」の主役はホーンド・キングかと言えば、彼は魔法の大釜コルドロンで蘇らせた死者を操って世界制覇を狙う邪悪な魔王です。それをヒーローとは呼べません。
●男性が主人公の最初のキャラクターは「コルドロン」のホーンド・キング?
ところが1990年以降、ようやく文句なしに男子が主人公と誰もが認める作品が登場しました。「アラジン」(1992)、「ヘラクレス」(1997)、「ターザン」(1999)の3本です。
ということは、ディズニー長編アニメではじめてのヒーローは「アラジン」ということになります。
ヒーローからイメージされるものは人間離れした男性です。例えばアラジンは人並み外れた盗賊。ヘラクレスは神話の男神。ターザンはジャングルの野生児です。もっと言えばアラジンの容姿は人並みですが、身軽な動きは軽業師。ヘラクレスとターザンはムキムキのキン肉マンです。いずれにしても超人。でなければアニメはもちません。
ディズニーのこの”ヒーローもの”の3作品のうちの、「アラジン」と「ヘラクレス」についてはこれまでにそれぞれ1項を割いておりますので、ここでは「ターザン」を中心にお話ししましょう。
●生い立ちが子供の将来を決める? ここ、決定的に重要です。
物語の始めはヒーローの生い立ちの紹介です。
船が難破し、辿り着いた南海の孤島で幼いターザンと樹上生活を始めた夫婦でしたが、ある日人食いトラに襲われる。父母を無くしてみなしごになったターザンは、子供を亡くした母ゴリラに育てられる・・・。
この導入部の生い立ちは、「ヘラクレス」では、生まれたばかりで父親のゼウスを持ち上げたり稲妻をおもちゃにして神殿を壊したりと、大変な力持ちだったという描写になります。けれども「アラジン」にはこの生い立ち部分がありません。アラジンにあるのは「いま」だけ。今がよければ、今が楽しければ、と毎日を楽しんでいます。その実、それは大変な努力。その努力を努力と思わずに楽しくやってのけられるのがアラジンの身上でした。
ちなみに、主人公の生い立ちを描いた作品は「ダンボ」「バンビ」「ライオン・キング」…と多いのですが、中でも「きつねと猟犬」は、大きくなれば追う/追われるという宿命的な立場にある二人の生い立ち自体が物語全体の核となっている作品です。
このようにディズニー長編アニメの主人公は、一部の作品を除いてほとんどが両親の優しい愛情に包まれて成長しています。
日本でも「三つ子の魂、百まで」ということわざがあるように、子供の性質は3歳までに決まる。その幸せな成長は幼少期の両親の愛情が形作る、ということをディズニーはいつも伝えているような気がします。
●ようやく本論。「ターザン」について。
エドガー・ライス・バローズは1914年に「ターザン」を発表。以来、30冊以上のシリーズを書き、1918年に同名の映画「ターザン」が作られてから、戦後も毎年のようにターザン映画が封切られるほどの人気者で、その数32作。戦後世代には他の追随を許さない唯一無二のヒーローでした。
ところがディズニーの「ターザン」は20世紀も終わろうとする1999年の作品ですから、ターザンがどう描かれるのか、どう受け止められるのか、興味がありました。
不死身の鉄人ターザンが、それまでの超人ではなく、原作を重視して人間として描かれ始めた最初の映画は「グレイストーク・類人猿の王者/ターザンの伝説」(1983)といわれますが、以後アメリカでは再びターザンへの関心が高まり、その人気復活に大きく寄与したのが「ターザン、ニューヨークへ行く」(1989)。以後テレビシリーズも作られたということで、現代の世代にも知名度は結構あったようです。
映画全体の流れは良く知られたターザン伝説を踏襲しています。ターザンは実は英国貴族グレイストークの息子。だから野生児であっても決して粗野ではなく、本来持ち合わせているジェントルな面が仲間のゴリラたちやジェーンに対してもすぐに表れます。このように、たくましくも心優しいヒーロー像は、「アラジン」でも「ヘラクレス」でも共通しているように感じます。ターザンとジェーンとの初めての出会いは樹の上というシチュエーションの違いはあっても、フェミニストな本性は変わっていないようです。
●理屈抜き。ジェットコースターと音楽を楽しむ映画。
ジェーンは動物学者ポーター教授の娘で、育ちの良さを反映した淑女です。親子はゴリラの生態研究のためにターザンと動物たちが棲む島に、探検家のクレイトンをガイドとして上陸します。クレイトンは実はゴリラを捕らえてイギリス本国で売り払い、利益を上げようとの下心があり、動物たちを仲間とするターザンと対立します。
●ヒヒの群れの襲撃からジェーンを救出するターザン
●ターザン! 壁ドンはずるいよ。
●・・・だよなあ。
ターザンとジェーンの出会いは、ヒヒの大群に襲われたジェーをターザンが救った時ですが、二人とも適齢期ですぐに気持ちが通じて、お互いに好意を持ちます。二人がキスをする機会は2度ほどあるのですが、ターザンはマナーを知らないし、ジェーンは控えめです。そして3度目にようやく実現。時代は19世紀ですから、男女の愛の表現プロセスはそんなものでしょう。
ターザンに妨げられてゴリラ捕獲の成果を上げられないクレイトンらはイギリスに帰還することになり、ジェーンにターザンとの別れの時がやってきます。ところが二人の事情を知る教授の計らいで、ジェーンも(そして教授まで)島に残ることになって、めでたしめでたしというお話です。
ということでこの作品では、原作にある文明批判のようなものはほとんど描かれていないのが、若干物足りない気がします。
●ジェーンも淑女のドレスをかなぐり捨てて・・・
このようにお話は大きく変わっていないのですが、実は「ターザン」には、アニメならではの見どころ、聴きどころが計算されていました。まず見どころでは、ターザンが樹上を走るシーンはまるでジェットコースターのよう。空中でのアクションも多く、どれも手に汗握る緊迫感です。次に音楽。当時の花形フィル・コリンズが5曲を書き下ろし、そのうち4曲で自らボーカルを担当。アカデミー賞歌曲賞を獲得しています。
この作品の制作当時の1990年代後半は、のちに(2006.1)ディズニー社に編入されるピクサー社による「トイ・ストーリー」(1995)、「バグズ・ライフ」(1998)というように、すでにCG100%のアニメ作品が次々と生まれていました。
「ターザン」はジャングルの背景をCGで描き、キャラクターは手書きによる制作手法でしたが、2000年以降はCG100%のアニメーションに向かうことになります。
(しかし、21世紀に入ってからも、手書きアニメ手法を尊重した作品も制作されています)
※この記事で「時計仕掛けの昭和館・別館」のキャパシティがいっぱいになりました。写真を入れられなかったので文字が多くなってしまいました。別館はこの記事が最後です。長期にわたりご愛読ありがとうございました。心より感謝申し上げます。<(_ _)>
※なお、当ブログはこの後「時計仕掛けの昭和館・喫茶室」となります。
https://fcm3.blog.so-net.ne.jp/
●人間の王子に恋をした人魚アリエル
アンデルセンの「人魚姫」を元にした「リトル・マーメイド」(1989)は、一時期停滞気味の長編アニメーションへのてこ入れ策として、ディズニーの新経営陣が打ち出したおとぎ話復活路線の第1弾です。
ヒロインのアリエルは、海の王トリトンの末娘で16才。好奇心旺盛な彼女は陸上の世界を想い、海底に沈んだエリック王子の彫像に憧れを抱いています。ある晩停泊している帆船に近づいて、本物のエリック王子に一目ぼれ。
ところが嵐になり、溺れる王子を助けたアリエルは、彼に対する感情を押さえることができなくなりました。けれども人間と人魚。許される恋ではありません。
このようにこの作品ではアリエルが王子を見染めるのです。ディズニー映画ではこれまでにない全く新しい状況設定です。
●憧れの王子を見に、自分から出かけて行ったアリエル
●人間を愛してしまったアリエルは、自分の美声を犠牲にして魔女から2本の脚を得る。
そこでアリエルはトリトン王に内緒で、海の魔女アーシュラに会いに行きます。トリトン王に代わって海底の覇者を目論むアーシュラは、アリエルが人間になるためには、3日後の日没までにエリック王子から真実のキスを受けることを条件に、アリエルの宝物とも言える美声と交換に彼女に両足を与えます。
もちろんアーシュラは、アリエルの夢をかなえさせる気などありません。それどころか、その期限までの間にあらゆる妨害の手はずを考えていました。
こうして人間の姿でエリック王子に会えたアリエルですが、声が出せないために想いを伝えることができません。3日はすぐに経ってしまい、その日の夕方になりました。
アーシュラは王子や周りの者に魔法を掛けて若い女性の姿で王子の前に現れますが、間一髪、アリエルに声が戻りエリック王子も正気に(この描き方はご都合主義)。巨大ダコの姿で正体を表したアーシュラをエリック王子が成敗して、晴れてアリエルは、人間の姿でエリック王子のお妃になることができました。アリエルは自分の意志で、大きな犠牲もいとわずに、捨て身で愛を貫き通したのでした。
●姿かたちではなく、本質を見抜く目を備えていたベル
「美女と野獣」(1991)のヒロイン、ベルは、同じ年頃の娘たちがうつつを抜かしている粗野でうぬぼれ屋のガストンに言い寄られても、まったく意に介しません。この作品では、それまでのディズニー長編アニメーションのキーワード<Dreams come true.>は、ガストンがベルに言い寄る時に、「あんたの夢を叶えて上げられるのは、俺くらいのものさ」というニュアンスで、それまでのキーワードを茶化すような形で使われています。これは、以前の長編アニメからの脱皮をほのめかすものと考えられなくもありません。
当のベルは、大好きな書物に埋もれてすてきな王子様との出会いを夢見ていますが、それが現実的でないことも承知しています。
●読書好きのベルは、粗野なガストンに目を付けられてしまった。自信家は始末が悪い。
ところがある日、発明家のお父さんが森の中で道に迷い、野獣の棲む古城に捕らえられてから、彼女の運命は一転します。彼女は果敢にも年老いた父の身代わりに、人質として古城に留まることを選ぶのです。
最初は野獣を恐れていたベルですが、日が経つに連れて少しずつ野獣の優しさも感じ取れるようになってきたある日、入ってはいけないと言われていた部屋を覗いて野獣の正体を知ったベルは、野獣に見つかり怒りを買って城から逃げ出します。待ち構えていたように彼女を取り囲むのは飢えた狼の群れ。ところがその危機を救ったのは野獣でした。その代わり、野獣は深手を負ってしまいました。手厚いベルの看護で二人の仲はぐっと狭まるのですが、ベルはお父さんのことが心配でたまりません。野獣は、ベルを帰してしまったら人間の姿に戻ることができなくなるのに、彼女を帰す決意をします。
一方、何としてもベルを我が物にしたいガストンは、ライバルである城の野獣に敵意を募らせていきます。ベルが戻ったのを知ったガストンは、期は熟したり、とばかりに村人を扇動して城に攻め込みます。ラストは屋根の上でのガストンと野獣の壮絶なバトル。駆けつけたベルの声を聞いて野獣も力強く応戦します。そしてやはり悪は滅び、正義が勝利するのですが、瀕死の野獣の命を蘇らせ王子の姿に戻したのはベルの愛でした。
ディズニー・プリンセスが登場するこれまでの3作も、ラストはキスシーンでした。けれども、どれも眠りから目覚めさせるおまじないのようなキスでした。けれども「美女と野獣」は違います。こんなにもリアルで美しいキスシーン。それはディズニー長編アニメーション史上、初めてのものでした。
そしてそれは、ディズニー長編アニメーションがもはや子供たちだけのものではなく、またアニメーションとしてではなく、普通の映画として楽しんでほしいとのメッセージを込めて観客に向けられたものでした。
●窮屈なお城の生活に嫌気が差した王女ジャスミン
それまでのヒロインが例外なく、王子さまと結婚してお城に住むことを夢見ていたのに比べて、「アラジン」(1992)が大きく異なる点は、ヒロインのジャスミンは始めからお城の王女さま。反対に、いつもお城を眺めて王子の生活を夢見ているのは貧乏人のアラジン、という真逆の設定であることです。これは新展開のディズニー長編アニメーションが初めて見出した斬新な切り口です。
●お城はアラジンにとっては憧れの場所。ジャスミンには帰りたくない退屈な場所。
舞台はアラビアのアグラバーの都。彼女は退屈なお城の生活に嫌気が差して、街の雑踏を見下ろしながら庶民の生活に好奇心を燃え上がらせています。そんな彼女ですから、お忍びで歩く街中でアラジンと出会って、意気投合したとしても不思議はありません。
一方、お城では王様がジャスミンの結婚を進めようとしていますが、ジャスミンは候補者をみんな袖にしてきました。この作品でジャスミンはアラジンとも対等に張り合います。場合によってはジャスミンがアラジンをリードする場面もあります。
アラジンは身分が違いすぎるので、魔法のランプの精ジーニーに頼んで王子の姿にしてもらいます。そのランプを手に入れて、アグラバーの王位とジャスミンを我が物にしようともくろむのが宰相ジャファーです。ジャファーは妖術を使ってアラジンを捕らえますが、驚くべきことにジャスミンは、アラジンを救うために色仕掛けでジャファーに迫ったりもします。こんな大胆なお姫さまはディズニー長編アニメーションでは初めてのことです。
●ジャファーに色仕掛けで迫るなんて、白雪姫、シンデレラ、オーロラ姫にはできません。
この作品では、危急存亡の時にアラジンが「Trust me.」と手を差し出すと、ジャスミンは「Trust You.」と応えてその手を受けます。<Dreams come
true.>というキーワードは使われていませんが、互いに信じ合うことでやはり夢は叶うのです。「アラジン」は、ヒロインが「I choose you.」と明確な意思表示で伴侶を選んだ最初の作品になりました。
●I choose you.
前回に延べた最初の3人のプリンセス、白雪姫、シンデレラ、オーロラ姫の愛は受身の愛で、待っていて与えられたものでした。
それから30年後、1990年代初頭の上記3作品で初めて、相手の愛を得るために自分から行動を起す3人のプリンセスが登場しました。6人のプリンセスの姿を通してみると、幼年期から思春期までの女の子の成長過程を見るようです。
●1989.11.9 ベルリンの壁崩壊。東西ドイツ、統一へ。
この意識変化は、1980年代の終りから1990年代初めに掛けての、ペレストロイカ、天安門事件、統一ドイツの誕生、ソ連邦崩壊という矢継ぎ早の世界変容と、社会情勢、男女間における価値観の変動と無縁ではありません。
今年も来ました、ニセアカシア食用披露目隊
記事は昨年のまま。でも、今年も1年分の花房を確保しました。
●甘い蜜の香りを放つ、ニセアカシアの花房 ●「アカシア並木に、ようこそ」
毎年、この時期になると、ニセアカシアの花について書いてきました。
真っ白いフジの花に似て、見た目にも十分チャーミングですが、
いつもの記事は、その花を採って食膳に供すること。
初耳だという読者の方も多くて、
関東では今がチャンスですよ、と伝えたくて、またまた記事にしました。
今年はサクラも例年より遅く咲いたので、
例年GWに満開のニセアカシアも、一週間程度遅く咲くだろうと読んで、
10日の午後、いつもの場所…多摩川土手のアカシア並木に出かけました。
狙いはバッチリ。五分咲き程度の開花。
中に甘い蜜を含んだつぼみの状態の房もまだまだたくさんあって、
天ぷら用に採取しようと思って出かけた狙いは大当たり。
開花したものでもいいのですが、天ぷらはやはりつぼみの方が…。
ま、それはお好みですが。
ニセアカシアは5~10mもある高い樹なので、花は摘みにくいのですが、
たまたま並木道のとっつきに、
花をたくさんつけた大木が横倒しになっていたので、
これはラッキー、とばかりに花は摘み放題。
夢中で摘んでいると、いつ現われたのかネコちゃんたちのお出迎え。
それもこんなに大勢揃い踏みとは、とおもわず恐縮。
私が花を摘んでいた30分ほどの間、
ほとんどそのままのレイアウトで、ずっとそばにいてくれました。
何も上げるものがなくて、かわいそうなことをしました。
近くのブルーシートのお宅で飼われているのかも。
それにしても驚いたのは、倒木の数があまりにも多いこと。
去年までは立派な並木道だったのに、今年は荒れ荒れです。
まるでこの間の大竜巻に遭ったかのよう。
ニセアカシアはもろい樹だとは聞きましたが、
このまま廃れていくのはちょっと寂しいことです。
●多摩川中流 川岸から流れまで100メートルほどはタクアン石だらけ。
●ビーチコーミングじゃないリバーサイドコーミングでは、
鳥はセキレイ程度で、他にはなにも見当たらない。
●枕にしたいような石 夏は気持ちよさそう
●この石、なんか価値ありそう。響さんの標本箱になかったら送ってあげますよ。
●お! これはモーゼの杖ではないか。長さ2m。
●出エジプト 杖を携えたモーゼのありがたいお姿(影)
●稲城大橋のふもとでコンガのような太鼓の練習をしていたお兄ちゃん
★ニセアカシアの野性味あふれる?食べ方などは、ぜひ過去記事を。
「銀座シネパトス」と「歌舞伎座」
消え行くものと、生まれ変わったものと。
銀座のど真ん中。
60年以上も親しまれてきた地下映画街が終焉を迎え、
一方で、真新しく蘇った劇場が開場を待っている。
前者は異色のプログラムで精彩を放ってきた「銀座シネパトス」。
後者は伝統芸術の殿堂「歌舞伎座」。
華やかに幕を開ける「歌舞伎座」に杞憂はない。
けれど、「インターミッション」のタイトルで幕を閉じる「銀座シネパトス」には、
樋口尚文監督が込めた願い通り、
耐震建築に生まれ変わって、必ず蘇ってほしい。
ほぼ向かい合わせの場所にある二つの建物の去就に
ある種、運命的なものを感じた、春先の一日だった。
●「銀座シネパトス」のラストショーは「インターミッション」。3月31日まで上映中。
●「歌舞伎座」新開場「杮葺落四月大歌舞伎」は4月2日より。
movie by sig
●関連記事
・「名画座は昭和の香り」 http://fcmfcm.blog.so-net.ne.jp/2012-05-14
・「日本映画事始め」 http://fcm.blog.so-net.ne.jp/2009-10-16
movie by sig
借りてきた猫、ですが…
土俵が丸でも四角でも、柔軟に対応できる猫を見習いたい。
ただし、丸め込まれるのは御免。
今年は巳年だから特に、
長いものに巻かれないように気を付けよう。
都内某所のペットショップでくつろぐスコティッシュちゃん。
今年もいいことがありますように。
この大熊手。
世界中の福をかき集められそうですね。
あしたもいいことあるように。
★YOUtubeで、気楽な動画を不定期にUpしております。
検索は fcm43961 で。お気に召すまま、どうぞ。
新橋 サタデー・ナイト
年賀はがきも発売され、
街角のざわめきが次第に盛り上がる季節になりました。
今年のラストスパート。輝きの季節。
六本木ヒルズのけやき坂には
早くも白銀を思わせるクリスマスイルミネーションが灯ったことだし、
いざ、トップにギアチェンジして、
積りに積もった今年の憂さを払いましょうか。
お遊び動画 by sig
東京駅復元で陽の目を見た、幻の壁面レリーフ。
10月1日、創建当時(1914・T3)の姿に復元された東京駅。
すでに物見遊山の人々のにぎわいは納まったようで、
人の流れは速く、中央駅としての日常が戻っている。
その中で、私にはぜひとも確認したいことがあった。
それは、前にこのブログに書いた巨大壁面レリーフのことだ。
あれはこのたびの復元工事で、どう扱われたのか。
復元に当たった鹿島建設のホームページや駅の案内パンフレットのどこにも
その記載が見当たらない。
とても気がかりだった。
■以前の記事 2011.9.3掲出
「4年前の新聞記事。その後が気にかかる」東京駅に埋もれていた、幻の壁面大装飾
http://fcmfcm.blog.so-net.ne.jp/2011-09-03
戦後間もない1947(S22)年。
ようやく再興したばかりの東京駅の内部に、
GHQの鉄道事務所が設けられることになった。
床面積は500平方メートルという大理石張りの広い空間。
延べ54メートルにも及ぶ三方の壁の高さは3.2メートル。
この巨大な壁面をどう飾るか。
そこで検討されたテーマは
新しい日本国始動に向けての国民の心意気を伝えたい、ということだった。
こうして実現したのが、石膏レリーフによる
全国の名所・特産を描き込んだ日本全図と、
江戸から京都までの名所を織り込んだ、東海道の旅の様子だったという。
進駐軍を驚かせたこの壁面レリーフは、
その後1970年代に、そのスペースが駅の事務室となった折に設置された
新しい壁面の後ろに隠されてしまった。
復元を終えた東京駅に、見事に復活していたのだ。
ほぼ40年ぶりの公開。
場所は東京駅の南端近く。京葉線改札口に続く地下通路。
位置的には「東京国際フォーラム」に近い。
石膏レリーフは、最初から着色されていたものか、変色か
ほとんどチョコレート色だ。
けれども、そこには確かに
新しい日本に向けての旅立ちの気運が、色濃く漂っている気がした。
東京駅巨大壁面レリーフの話は、10年ほど前に
友人の父君から伺ったことが、私の興味の発端だった。
その方は当時GHQの通訳として、進駐軍にレリーフを紹介されていた。
それが十年程前、覆いの陰でほこりを被っている現場を訪ねて
何とか復活させたいと語っておられる記事が、新聞に掲載された。
頂戴したその記事は残念ながら7年前の転居で失ってしまった。
そして、その方は昨年90歳で亡くなられた。
再び展示されたこの姿を目にされたら、どんなに喜ばれたことだろう。
by sig
八重洲側からだと京都から江戸への旅となる。
日本全国のレリーフ 以下の写真は部分拡大
関東
東北
中部 中央は東照宮
駕籠で旅をする女性
飛脚
鎌倉の流鏑馬
江戸の風景 富士山を背景に千石船の船出
左は京葉線の改札。こちらからだと江戸から京都への旅となる。
●1ギガまで、あと7メガです。
映画のまち調布市で「日活100周年」
京王線記念乗車券発売と日活100周年企画展(企画展は10/21まで)
このところ、東京・多摩地域の調布市が弾んでいる。
西が太秦なら、東は調布。
そう。東日本の代表的映画産業「日活」が創業100周年を迎えたからだ。
■日本最古の映画会社「日活」のあゆみ
「日活」つまり「日本活動写真株式会社」の創業は1912(大正元)年。
今回初めて知ったことなのだが、
その撮影所は、調布市多摩川の現在「角川大映撮影所」のある場所で、
戦前は「日活多摩川撮影所」と呼ばれていたのだそうだ。
では、「日活」と「大映」の接点は?
「大映」つまり「大日本映画製作株式会社」は、
日活の製作部門、大都映画、新興キネマの合併により、
戦時中(1942、S17)に創設された。
同社の撮影所は京都に2か所あり、調布の「日活多摩川撮影所」は「大映東京第二撮影所」
と呼ばれるようになり、戦後、「大映東京撮影所」となった。
その後1954年に、現在の調布市染地の「日活撮影所」が稼働開始。
調布市多摩川の「大映東京撮影所」は1950年代、
「日活」「松竹」「東宝」「東映」と並ぶいわゆる邦画5社として
日本映画の全盛期を華々しく飾ったのち、
紆余曲折を経て現在は「角川大映撮影所」となっている。
このくらいややこしい経緯が、この100年の間にあったのだ。
1958年をピークに娯楽の王者として最盛期を迎えた日本の映画産業は、
その頃台頭したテレビに追われて、70年代には壊滅的な様相を呈した。
私が幸運だったのは、日本映画がいちばん充実していた時代に出会えたことだ。
●京王線の「日活100周年記念切符」のたとうとサービス絵葉書
私と日活映画との出会いは1957年の石原裕次郎主演「嵐を呼ぶ男」からだ。
その前年、兄慎太郎(現東京都知事)原作「太陽の季節」でデビューした裕次郎は、
この作品で人気をゆるぎないものとし、日活青春映画路線の花形となった。
裕次郎と並行して人気があったのは小林旭の「渡り鳥シリーズ」。
諸国を渡り歩くやくざ稼業を現代に置き換えたシチュエーションは無国籍映画と呼ばれ、
のちの東映のやくざ路線や松竹の寅さんシリーズの先駆けと言えるかもしれない。
こうした男優陣に南田洋子、北原三枝、芦川いづみ、浅丘ルリ子といった新鮮な女優陣が
彩りを添えていた。
吉永小百合がデビューした頃は、洋画の大作に目が移り、日活映画とは縁遠くなっていた。
ハリウッドがテレビ対抗策としてブラウン管では見られない大型映画路線を打ち出し、
最後のあがきを演じているところだった。
●記念切符
この夏の8月19日、地上駅から地下駅へと大きく転換したばかりの京王線調布駅では、
「日活100周年」に合わせて調布駅限定で記念切符3000セットを売り出した。
スターの似顔絵入りで4枚1000円分の切符が、日活100年の歩みを描いたたとうにとじ込まれ、ちょうど私が熱狂した日活全盛期を代表する青春映画3作品のポスター絵葉書が付いているのがうれしかった。
切符は10月末まで有効だが、この切符で乗車する人はいないだろう。
■点から面へ広げたい、映画による地域振興
日活100周年にちなんだ映画資料企画展が開催されているという新聞記事を見て、
「角川大映撮影所」に近い「調布市郷土博物館」を訪ねてみた。
●調布市郷土博物館
調布市は映画の街を標榜しており、博物館では大映、日活撮影所関連の撮影機材や編集機材、監督や出演者関係の資料、ポスター類などを所蔵しているのだが、
今回はそれらにプラスして、八王子在住の映画史研究家・畑三郎さん収集の珍しい資料が揃えられているということだった。
●映画史研究家 畑三郎氏
●日本映画草創期の人気スター、目玉の松ちゃんこと尾上松之助の児雷也
目玉の松ちゃんの愛称で人気者だった尾上松之助、大河内伝次郎、片岡千恵蔵、
バンツマこと坂東妻三郎など日活草創期の男優・女優のブロマイド、映画ポスターやスチル、映画雑誌やシナリオ、プレスシート、そしてスターをあしらったメンコまで、
幼少からの映画好きが昂じて映画ジャーナリストの道を歩んでこられた畑さんならではの
貴重な収集物だった。
うれしいことに館の担当者の方の気の利いた計らいで、
その二日後、畑三郎さんとお会いすることができた。
博物館から場所を移し、
調布駅近くの「たづくり」のレストランで4時間もお話を伺うことができた。
畑さんが60年以上かけて集めた資料は、段ボール箱で250個、10万点にも上るという。
然るべき映画資料館への寄贈も考えたが、収蔵されたままになってしまう傾向が大。
それでは映画という文化は伝わらない。また、受け入れが決まった自治体があったのだが、
収蔵の心配りや展示手法、そして何よりも映画に対する情熱に問題があり、
結局断念せざるを得なかったという苦い経験も伺った。
現在、畑さんの考えは、この資料を地域振興に生かすこと。
自治体関係では、各地の博物館、図書館などでの収蔵や所蔵品、書籍等とタイアップした企画展示。あるいは文化センター等での特別展示。
地域活性化企画としては、生徒が減少して閉校した学校、シャッターを閉めたお店が多い商店街などのスペースを利用した長期展示、常設展示など。
このような企画は机上の空論ではなく、実際に施設の年配者を動かして企画展示の運営に当たらせることで生涯学習や生きがいづくりにつなげたり、
今年2月には、大震災の被災地・宮古で「懐かしの映画資料展」を開催して喜ばれるなど、
具体的な実績を多く積まれた畑さんならではの具体性があり、
その展開アイディアの非凡さには舌を巻いた。
とにかく畑三郎さんとの時間は、同じ映画史を生涯学習のテーマにしている私にとって、至福の時間だったことは言うまでもない。
そしてもっとうれしいことに、
11月になったらお宅をお訪ねし、膨大な資料の片鱗を見せていただくことになった。
■「映画のまち・調布」を、より強固にするために
この日活100周年記念イベントは、今のところ京王線の記念切符と日活映画100周年資料展しか目につかない。つまり、<点>の展開に過ぎない。
現在の日活映画の拠点である同市染地の「日活撮影所」や、先に述べた「角川大映撮影所」などでは、日活100年に因縁の深い場所でありながら、大きな動きは見られない。
折角のチャンスなのだから、これを機に地域活動としてうまく連動させ、
<面>として拡大定着させることが大事、とは畑さんの弁。全く同感。
その意味で、私は調布市民ではないが、少し残念な気がする。
畑さんと別れて、私の頭の中は渦を巻いていた。
「映画のまち調布」のイメージを、より広く定着させること。
その裏付けとして、二つ揃っている映画撮影所。
更に、畑三郎さん収集の膨大な映画関係資料。
これだけの材料があるのだから、イメージだけではなく具現化できるはず。
●調布駅地上部分解体工事
ホームやレールが無くなり、新しい調布の核が生まれる。10/8撮影
……と考えたら…あるではないか、最善の方策が!
現在、調布駅は地下化を終え、地上部分の整備が進められている。
新しい調布駅前が出現するのは2年後という。
地上の再開発がどう進められるのかは知らないが、何かの構造物が予定され、
それは新しい調布市の顔となるだろう。
それがイコール「映画のまち調布」のシンボルのはずだ。
そこは、日本映画に限らず最新の映画情報に立体的に接することができる場所。
例えば、スター、タレントと出会え、監督たちの話が聞け、過去の映画の上映も行われる。
そこに映画各社の機材や映画資料を集めた「映画総合資料館」ともいうべき常設展示スペースを設けるのだ。
これにより、調布の新名所としての「映画総合資料館」と、これまでの「調布市郷土博物館」「日活撮影所」「角川大映撮影所」による文字通り「映画のまち調布」という<面>が出来上がる。更に、博物館そばにある「映画記念碑」を加え、年間にわたる連動企画を打ち出して人の動きを創りだしていけばいい。
とにかく、街を挙げて映画・映像のメッカとすることが必要なのだ。
これは突飛なアイディアだろうか。
とにかく、こんな文化的複合施設ができればうれしい限りだ。
(もし、すでにこのような企画が進められているとしたら、大いに期待したい)
●映画記念碑
★「調布市郷土博物館」での企画展示「日活100年と映画のまち調布」は10月21日まで。
京王相模原線「京王多摩川」下車、徒歩5分。入場無料。
ちょっと分かりにくいので、改札を出たら聞くといいでしょう。
シモキタ、タソガレ。
●小田急線と井の頭線のホームに掛かる跨線橋
下北半島ではなくて、
ここは小田急線と京王井の頭線が交差する「下北沢」。
渋谷、新宿に近く、
ライブハウスや小劇場の街として文化・芸術の香りがするせいか
いつも学生たちでにぎわっていて、
おしゃれなショップやカフェ、レストランも多いのだが、
昭和世代にはむしろ、雑然とした駅周辺の様子が懐かしい。
●小田急線
●乗換え通路
●街の雰囲気
立体的に複雑にクロスする2社のプラットフォーム。
古ぼけた駅の階段。
薄汚れたガード。
威勢のいい掛け声が響く食品市場。
曲がりくねった細い路地の両側に続く、昔ながらの商店街。
吉祥寺や自由が丘、原宿・竹下通りのようなファッションタウンとして語られることも多いようだが、
シモキタの空気は、そのどことも違う。
それは、その生い立ちに由来しているからに違いない。
駅周辺は戦後の闇市に端を発し、
1964年の東京オリンピックでも都市化は進まなかった。
その頃、下北沢はジャズ喫茶やアングラ芝居など
時代の流れに反抗するカウンターカルチャーのメッカであり、
ヒッピーと呼ぶ若者風俗が蔓延していた。
その空気は薄れたとはいえ、今もどこかで息づいている気がする。
●銀座4丁目 三愛ビルの建設 1962.5.2 ●東京オリンピック 1964.10.10
●超高層の曙、霞が関ビルの建設 1968.11.15
※以上3点、毎日新聞社「昭和史全記録」より
まさに昭和の残影。
そんなムードが懐かしくて、時々訪れる。
ここで好きな時間は、初秋のたそがれ時。
※「下北沢」は駅名で、地名としては北沢2丁目になります。
●本多劇場系「劇・小劇場」
●駅から徒歩15分。伝統ある劇団東演の「東演パラータ」
●「東演パラータ」の真向かいはkurakichiさん御用達の「珈琲・邪宗門」
(残念ながら木曜定休でした)
◎4年前の新聞記事。その後が気にかかる。
http://fcmfcm.blog.so-net.ne.jp/2011-09-03
◎タテもいいけど、ヨコもいい。
http://fcmfcm.blog.so-net.ne.jp/2012-04-20
◎東京駅リニューアルオープンは10月1日。
http://fcmfcm.blog.so-net.ne.jp/2012-09-24
◎東京駅→有楽町駅 昭和散策
]]> 東京駅リニューアルオープンは10月1日。
(動画を追加しました)
●これまで駅舎を隠していた工事事務所がようやく取り除かれ、全体が見られるようになりました。
あと1週間。駅舎前の最後の片づけが続いています。
9月24日。東京駅の様子を見に行ってきました。
リニューアルオープンは10月1日。
ちょうど1週間のこの日は、報道関係者へのお披露目の日だったらしく、
駅の入り口やシンボルのドームに隣接する「ステーションギャラリー」の入り口に受付が設けられ、内部の様子が公開されたようです。
改札につながるドームの下のホールはもう普通に利用でき、
オープンを待ちきれない人たちが様子を見に来ていました。
●ドームの天井は白い幕で遮断されていて未公開。十二支の動物たちの彫像が並んでいるはず。
駅外観の全体を展望できる南口にもたくさんの人たちが集まって
およそ100年前の姿に復元された全景をバックに、
記念写真を撮り合っている姿が見られました。
●5年ぶりに復活した国の重要文化財、東京駅の丸の内駅舎。
1914(T3)年に辰野金吾の設計で建設された姿がよみがえりました。
MOVIE by sig
9月22.23の両日の夜には、
長大な東京駅の外壁をスクリーンにした驚異の映像アトラクション
「東京駅プロジェクションマッピング」が上映されたということですが、
見落としてしまいました。
どうぞmatogrossoTVさんのすばらしい動画でお楽しみください。
●「東京駅プロジェクションマッピング」matogrossoTVさんの投稿より
●建物に映像を投影するアトラクションは、disneyworldさんのブログでディズニーワールドのシンデレラ城に投影する動画を見せていただきましたが、その手法が日本にも上陸したようですね。
昭和時代、
北の上野駅が、北海道、東北、北陸からの終着駅なら、
南の東京駅は西日本からの終着駅でした。
改修成った東京駅は今、北と南を含めた日本の核として
新しい一歩を踏み出そうとしています。
●東京駅関連記事
◎4年前の新聞記事。その後が気にかかる。
http://fcmfcm.blog.so-net.ne.jp/2011-09-03
◎タテもいいけど、ヨコもいい。
http://fcmfcm.blog.so-net.ne.jp/2012-04-20
◎東京駅→有楽町駅 昭和散策
]]>ファイルの表紙として使っていました。
まさか、あの大惨事が起きようとは……。
誰も再び目にすることのできない、この穏やかな風景……。
天災、戦争、内乱、テロ、人災…。世界を覆う悲惨な出来事の数々。
忘れたいけれど忘れてはいけない、このジレンマ。
●WTCによる悲しみと鎮魂の映像です。
「マンハッタン9月11日-生還者たちの証言」(中央公論新社)を読んでいます。
職務遂行の責任感で、危険覚悟で救助に向かった消防職員たち。
自分を後回しにして見知らぬ人たちを避難誘導した会社員。
火の手が迫り、後ろ髪引かれる思いで負傷した同僚から離れなければならなかった女性事務員……。
驚天動地の真っただ中。恐怖のどん底にあって、
瞬間、それぞれの頭をよぎったのは何だったのでしょう。
助かった人たちは、それこそ万に一つの偶然。
東日本大震災からも1年6か月。
テロと天災の違いはあっても、被災地の皆さんは
命の危険を感じる究極の恐怖―その中での選択、という点では同じ体験ではなかったでしょうか。
そして、確実視されている東京直下型大地震。
とっさの判断が生死を分かつとはいえ、
その時の行動によって、人間としての真価が問われることにもなるでしょう。
危機管理の重大さといっしょに、その時を迎えた場合の心構えも重大です。
果たして、自分は……。【にわか鉄っちゃん】してました。
地上を電車が走らなくなる日。京王線調布駅
●電車のある風景
●8/18 地上走行の見納め風景
地上走行は、電車が通る街として、街の活性化にも貢献していた。
●8/18 最後の踏切風景 渋滞緩和は歓迎だが、この風景も捨てがたい。
8月19日。
京王線調布駅を中心に、前後の駅が地下路線に変わった。
資料を見ると、工事開始は2004(平成16)年9月。
その情報を知って、調布駅の変化に関心を持ち始めたのが、その年の4月。
地下工事だからそれからの数年間は地上の風景は変わらず、
変化が見え始めたのは2007年の夏頃から。
なじみの駅舎と、隣接していたモダンな交番が取り壊され、
その年の冬にかけて、仮の地上駅舎が完成。
地上駅舎とホームは、その後エレベーターなどいろいろな利便性を充実させながら、この8月18日の終電まで使われてきた。
そして地下路線が開通した現在、これまでの地上駅やレールは閉鎖され、解体を待つことになる。
●電車地上走行の最後の風景(京王多摩川駅~調布駅)2012.8.17午後 撮影 by sig
●調布駅舎の変遷
写真左に南口から北口に抜ける地下通路の入り口が見える。
2005.7.29撮影 南口の地下通路入り口と地下通路の様子
2005.7.29撮影 北口駅舎全景 ・丸窓のある建物は交番
2007.12 工事関係の電線、パイプ等が露出
2008.12.1撮影 すっかり駅らしくなった北口
この大工事の目的の一つに、踏切を無くすことによる交通渋滞の解消ということがあり、工事区間にあった18か所もの踏切がなくなった。
新しい地下駅は、これまで平面上にあった上下線4路線が、上りと下りに分かれた2層構造となり、電車走行の安全性と乗換えがより便利になった。
●連続していた踏切 これらの踏切が無くなった。
●新旧調布駅の概念図
地上4路線だったものを、上りと下りに分けて2層運行。
この工事は東京都主体の事業として、総工費約1,150億円。
地下部分の掘削の幅には当然制限があるため、線路はそれまでの路線の真下に敷設する必要がある。そこで、地上と地下への進入部分は、鉄骨の骨組みで支えて電車を走らせながら、その直下を掘削して新しいレールを敷設するという工法がとられたということだ。
工事仲間は完成の美酒に酔いしれたことだろうが、
乗客には何年にもわたる苦労をおくびにも出さず、「お待たせ致しました。さあどうぞ」と
何事もなかったような顔をして笑っている。すごいことだ。
不可能とも思えることを可能にする人の英知と技術力には、頭が下がる思いがする。
新宿に出る用があって、新しい地下の調布駅で乗り換えた。
新駅にはエスカレーターが付き、ホームにはセーフガード(安全扉)が設置されている。
空調の心地よさは、猛暑の中、地上ホームで電車を待つのとは大違い。
調布市が舞台となった「ゲゲゲの女房」の主題歌、いきものがかりの「ありがとう」のメロディーが流れ(短いのでよく聞き分けられなかった(*_*;)
見慣れた電車が入ってくる。電車も新しくなったような気がした。
けれども、走り出した電車の窓からの様子は、トンネルが続く地下鉄と変わらない。
間もなく地上に出て青空が見えると、ほっとした。
調布駅が地上駅だった数日前まで、
ホームから聞こえていたアナウンス。
カンカンカン…となり続けていた遮断機の警報。
ポールに堰止められて膨れ上がる人と車。
轟音と共に通過する電車の音。
それらが急に無くなってしまった街の感じって、どうだろう。
赤い円筒形のポストが姿を消した後、
遮断機のカンカンと踏切風景は、わずかに残る昭和の風情だった。
電車の姿がなくなった調布駅を取壊し、地上の風景がスッキリするまで、
あと2年はかかるとのこと。(2014年度に工事完了予定)
●その昔、調布駅前の立地で発展した「調布銀座」。これをきっかけにさらに繁盛してほしい。
日々雑感、あんなこんな
東京ビバリー・ヒルズ、真夏の昼下がり。
by Google Map
猛暑の中、渋谷区松濤の高級住宅街を訪れました。
豪壮な邸宅やコンドミニアムが連なって、閑静なたたずまいを見せる路地。
お城のような門構え。当然の顔をして居並ぶ高級外車。
裏庭には、プールをお持ちのお屋敷もありそうな。
パームツリーとおぼしきものは、無粋な電柱だけれど、
それを除けば、ここは東京のビバリー・ヒルズではないか。
もちろんこの町に用などあるはずはなく、ついでに立ち寄ったまでのこと。
しばし目の保養のあと、普通の街区に出て、
普通の昼食をとって帰りました。
●戸栗美術館
●観世能楽堂
●大山稲荷神社
●あれ、いつの間にかここは、知る人ぞ知る円山町への入り口。
●ビバリー・ヒルズから歩いて2~3分。やっぱり好きな場所へ足が向いてしまいました。神泉町。
長岡大花火の「大」には、特別な意味がある。
●2005年からプログラムに加わった、復興祈願花火「フェニックス」
いつも、8月は暑い上に電車が混むから、と真夏の帰省をパスしてきたのですが、
今年は墓参を兼ねて、久しぶりに「長岡大花火(おおはなび)」を観に帰りました。
長岡花火は「長岡まつり」の一環として、
毎年8月2日と3日の2日間、大河信濃川の中州で打ち上げられます。
長岡花火は終戦後、長岡大空襲被災者の鎮魂と焦土の復興を願って打ち上げられたもので、
観光を意図したものではありませんでした。
★関連記事 http://fcmfcm.blog.so-net.ne.jp/2012-05-25
平和な時代になって長岡花火は、世界の平和を願うようになりました。
同時に、信濃川の広い河川会場を生かして、
尺玉と呼ばれる直径30cm以上の大型花火をふんだんに揚げる大花火の名所として
注目されるようになりました。
特に直径90cmの「正三尺玉」と、
長生橋の橋げたを光の滝に変える「ナイアガラ」の人気は高く、
更に「ベスビアス」に代表される各種の「超大型スターマイン」が加わって、
長岡大花火を象徴する定番プログラムになりました。
長岡花火は、もはや Fireworks というよりも、
日本語の文字通りに、大空に大輪の花を咲かせるFlower-Fireと呼んだ方が妥当かもしれません。
●正三尺玉(直径90cm 重さ300kg)の内部
東京スカイツリーとほぼ同じ600mの上空で、直径650mもの大輪の花を咲かせます。
ところで長岡は、
1964年6月・新潟地震(M7.5)、2004年7月・信濃川水系大水害、同年10月・中越地震(M6強)、2007年7月・中越沖地震(M6.8)…と大きな災害に見舞われました。
長岡花火はそのつど犠牲者の鎮魂と早期復興への願いを込めて打ち上げられ、
中越地震の翌2005年には、復興祈願の超大型スターマイン「フェニックス」が誕生しました。
冠に「超」が付くこれらの大型花火が、
どれほど市民を元気づけたかは言うまでもありません。
長岡花火は、不屈の<長岡魂>を奮い立たせる起爆剤でもあるのです。
Camera by sig
●2009年からプログラムに加わった「天地人花火」の3分間に及ぶ光の七変化
その後の長岡大花火は、更に拡大の一途をたどります。
2009年からはNHK大河ドラマの世界を大型花火で表現した「天地人花火」が加わり、
今年8月3日には、
長岡を舞台にした大林宣彦監督の映画「この空の花-長岡花火物語」公開にちなんだ
同名の超大型スターマインも打ち上げられました。
それは、これまでの大型花火に勝るとも劣らない見事さでした。
この超大型スターマインが長岡花火の定番に加わるとしたら、
「長岡大花火」の魅力は更に増大するでしょう。
ぜひ、そうあることを願っています。
●映画「この空の花-長岡花火物語」関連記事
http://fcmfcm.blog.so-net.ne.jp/2012-05-25
●8/3に映画にちなんで初めて打ち上げられた「この空の花」 bea photoさんのYOUtubeからお借りしました。
ところで、長岡市の最近のビッグニュースは、
今年3月2日(日本時間では3日)に実現したホノルル市との姉妹都市締結です。
1945年8月1日、B29の大空襲によって壊滅的被害を受けた長岡市。
その発端は日本の真珠湾攻撃で、ホノルルも被害甚大。
それを企図した山本五十六は長岡市の出身。
その縁で長岡市は日米友好の象徴的な形として、
かねてからホノルル市といろいろな形で交流を図ってきたのですが、
それがはっきりとした形でようやく実現したのでした。
その記念にワイキキビーチの沖合で打ち上げられたのが長岡花火でした。
日米友好と世界平和を願う長岡花火のメッセージは、
浜辺に集まった人たちに深い感銘を与えたことでしょう。
★記事参考/「長岡の大花火'12 オフィシャルガイド」
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