「モスラ」も観られるよ、京橋 [新橋・銀座・京橋・八重洲・日本橋]
新橋から日本橋へ、中央通りを歩く-③
「モスラ」も観られるよ、京橋
●上2枚 高速道路の手前で銀座は終わり、 「銀座京橋」と書かれた高速道路の向こうが京橋~日本橋。
私にとっての京橋は、映画と切り離せない。
銀座と京橋を分けるのは、文字通り「銀座京橋」と書かれた高速道路。
その際にそびえる建物が「ル・テアトル銀座」。
今はライブの劇場「ル・テアトル銀座」と「銀座テアトルシネマ」だが、
この場所こそ、往年の大スクリーンを誇った「テアトル東京」があった所だ。
シネラマと70ミリ映画の大画面。そして最新の音響設備。
それが売り物の、全国屈指のロードショー劇場だった。
●現在の「ル・テアトル銀座」とその前身の「テアトル東京」(下)
●1952年 「風と共に去りぬ」日本初公開 (米国公開は1939)
●「ベン・ハー」ロードショー 1968
映画が全盛と言われたのは、1950年代後半から60年代にかけて。
特に60年代の洋画は圧倒的スケールで大作が続々と製作され、
観客は劇場に列を成し、文字通りの黄金期だった。
三船敏郎が各国のスターと肩を並べて出演した「グラン・プリ」(1966)で、
映画は轟音を挙げて疾走するカーレースのコースの中に観客を放り込み、
「2001年宇宙の旅」(1968)で観客は、不思議な宇宙空間を遊泳した。
もちろん私もその一人だった。
■フィルムセンター
●フィルムセンター外観
日本映画の関連では、「フィルムセンター」を欠かせない。
「銀座京橋」と書かれた高速道路をくぐって2ブロック。
中央通りと交差する鍛冶橋通りを右折したところに、それはある。
正式には「東京国立近代美術館フィルムセンター」。
●中学時代、担任の憧れのマドンナ・香川京子さん
12月25日まで、熟年世代には懐かしい名女優、香川京子の企画展が開催されている。
女優生活60年。彼女の出演した作品と、関連展示を見ることができる。
「東京物語」「ひめゆりの塔」(1953)、「近松物語」「山椒大夫」(1954)など、
小津安二郎、溝口健二、黒沢明といった巨匠の名作に出演し、
現代ものから時代物まで幅広い。
●完成したばかりの東京タワーに巣作りを始める「モスラ」1961
12/11午前11時からと12/15午後7時からは、
特撮の先駆、本多猪四郎監督の「モスラ」も上映される。
この作品で香川京子は、時代の先端を行く女性カメラマンとして活躍する。
とにかく芸域の広い女優さんだ。(「モスラ」といえば、ザ・ピーナッツも)
■フィルムセンター発掘フィルムの一例
●「紅葉狩」1899 柴田常吉監督 ●「忠治旅日記/信州血笑編」1927 伊藤大輔監督
九世市川團十郎と五世尾上菊五郎の舞台をそのまま撮影。日本最古の映画フィルムとされる。
★関連記事 http://fcm.blog.so-net.ne.jp/2009-10-19
フィルムセンターでは、
旧い映画を収集・保存・復元する活動が、近年目覚ましい。
劇映画に限らず、記録映画、文化映画もその対象だ。
「紅葉狩り」(柴田常吉監督1899)、「忠治旅日記」(伊藤大輔監督1927)
などの作品が過去に発掘され、話題を呼んだ。
●玩具の映写機と、そのソフトとして売られた35ミリ映画フィルムの切れ端
右は伊藤大輔監督「新版・大岡政談」の大河内伝次郎
●同、昭和天皇巡幸の記録映画フィルム
その活動が、おもちゃとして売られていたフィルムにも及んでいると聞く。
子供の頃、一番欲しかったおもちゃがブリキの映写機だったが、
そのソフトに当たるものが、昔の無声映画の35ミリフィルムだった。
上映済みの映画フィルムが、玩具用に50フィートずつ切り売りされていたのだが、
今ではそれが、昔の劇映画の復元に役立っているのだという。
万年映画少年にとって、これほどうれしいことはない。
★関連記事 http://fcm.blog.so-net.ne.jp/2008-05-09
■その他の展示
フィルムセンターでは、フィルム・アーカイブの他に、
映画製作に関する各種の機材も多数収集されている。
映画の技術史に興味を持つ私にとっての、もう一つの楽しみだ。
下の写真はサイレント時代の映画撮影機。
上部、左の四角い箱に1000ftの35ミリ生フィルムを装てんし、
本体の動画機構とレンズを通して右の箱に巻き取る。
駆動は手回し。本体うしろのハンドルを1秒2回のスピードでコンスタントに回して撮影する。
映画史上に燦然と輝くD・W・グリフィス監督の「イントレランス」(1916)は、
このカメラでこうして撮影された。
展示品はもちろん同型機だが、このような人の英知と対峙するのは楽しい。
●フランス、パティ社の35ミリサイレント、手回し撮影機
映画史上に異彩を放つD・W・グリフィス監督の「イントレランス」(1916)は、この手回しカメラで撮影された。
●「イントレランス」の1シーン
★「イントレランス」関連記事 http://fcm.blog.so-net.ne.jp/2010-04-29
■京橋~日本橋に向かって
●上の3枚 中央通り 京橋から日本橋方面を臨む
●同、現在の様子 中央通り 京橋から日本橋方面を臨む
●京橋に立ち寄る楽しみの一つに、明治屋で舶来のお菓子を探すことがあった。
ビルの外観も店内の品揃いも、ニューヨークあたりにいる気分で、楽しかった。
●日本橋方面から京橋方面を振り返ったところ。 中央やや左の茶色の建物が明治屋
●あちこちでビル建設が続く京橋界隈
次回は八重洲のあたりを少し・・・
新橋から日本橋へ② 「銀座」 [新橋・銀座・京橋・八重洲・日本橋]
新橋から日本橋へ。中央通りを歩くー② 銀座
●銀座4丁目交差点 左隅は三愛、中央は和光(服部時計店)、右隅は銀座三越
●今回は銀座4丁目を中心に、東西南北です。
ぶらぶらあるきは、やはり銀座。
1970年代(S40年代後半~50年代半)。
銀座は東京一のおしゃれタウンで、「銀ブラ」という言葉がまだ生きていた。
飢餓世代の貧乏性には、銀座は最も似合わない街だ。
そのくせ、銀座が好きなのだ。
きっと、気持ちが満腹になるからに違いない。
だからこそ銀座、なのだ。
●銀座ヤマハ(上)とヤマハホール(下)
出没先は加藤書店、洋書のイエナ、文具の伊東屋、楽器のヤマハあたりが常連。
ちょっとした粋がりと、新しいものに対する好奇心から。
レストランでは「ライオン」と有楽町寄りの「ニュートーキョー」。
当時からすでにレトロな感じのレンガ造りの雰囲気が好きだった。
●銀座ライオン
●銀座4丁目交差点 左が日産ショールーム、その奥が銀座コア。右は三愛。
銀座4丁目交差点、日産ショールームの裏あたりにあった
ボリューム満点の「時計台」という札幌ラーメンも大好きだった。
芳醇な味噌の香りと、それ以上に深く、濃い味わい。
山のように盛ったもやしが、こぼれそうだった。
当時の北海道は国内旅行の一番人気。
ラーメンなら「札幌みそ」と決めたのは、この時からだった。
●左は銀座松坂屋
●三愛ビルの前は不二越ビル。その屋上、森永製菓の回転式ネオン塔は、
1953.4月に設置され1958.2月に解体されるまで、昭和の銀座の象徴だった。
●左は和光。右は銀座三越。その奥が銀座松屋。
松坂屋、三越、松屋と続くデパートの中では、松屋が一番好きだった。
松坂屋はどちらかといえば庶民的。
三越は文字通りの老舗で敷居が高い。
そこへいくと松屋のセンスは、何よりも開放的でフレッシュだった。
デパートが大型スーパーに押され、世界の有名ブランドに占拠される前の話。
銀座4丁目交差点近くの「銀座コア」が開店した頃だ。
そういえば、日劇がなくなって、そこに「マリオン」ができたのは1984年。、
もう17年も前の話だ。
●日劇ファイナル 1981.2.15
●日劇あとに誕生したマリオン
●ソニービル(右)とプラダビル(左)
●プラダビル ●数寄屋橋下、どぶ川が次々と高速道路に変身 1957
●左、モンブラン
●フェラガモ ●文具の伊東屋
●シャネル
4丁目交差点を軸に、中央通りと交差する晴海通りもよく歩いた。
北西は日比谷、有楽町。南東は三原橋を経て築地に至る。
話題のロードショーを観るために、東劇にも奮発して出かけた。
歌舞伎座や新橋演舞場は、高峰の花だった。
千葉県の幕張に「幕張メッセ」ができるまでは、
晴海の「東京国際貿易センター」がメーカーの晴れ舞台だった。
一番人気はなんといっても「日本モーターショー」。
次いで「エレクトロニクスショー」「ビジネスショー」などのコンピュータ関係。
その他、食品、アパレル、医療機器、住宅に至るまで、
あらゆる業種のトレードショー、コンベンションが年間スケジュールを埋め尽くしていた。
いつもいつもものすごい人の波。
晴海埠頭からは東京湾周遊の遊覧船も出て、
イベントがはねたあとも、埠頭は夜まで賑わっていた。
貿易センターの安藤さんという係官から聞いた、ほんとの話。
広大なセンターの敷地は、夜は街灯もなく、文字通りの真っ暗闇。
警備のため自転車で巡回するのだが、ライトが点かない。
隅から隅まで知った場所だから、「ま、いいか」とそのまま巡回していると、
前方からそろそろと近づくパトカー。
「まずい」と思ったがすでに遅く、パトカーは安藤さんのすぐわきに。
「無灯火!」と一喝されてすくんだ安藤さん、
思わず「いえ、安藤です」、と答えましたとさ。(分かりましたか?)※
展示場でイベントの仕事があると、その帰りは銀座までよく歩いた。
結構な距離だが、途中、もう上がることのなくなった勝鬨橋、
築地本願寺、三原橋、歌舞伎座と特徴のある風景が続き、見飽きなかった。
隅田川はまだ黒くどんよりと淀み、強いドブの臭いが漂っていた。
●三原橋から築地方面
●左/歌舞伎座、右手は東劇
●勝鬨橋
●銀座関連の過去記事は下記へ
http://fcm.blog.so-net.ne.jp/2009-06-20 「仕事が遊び」「遊びが仕事」という会社
http://fcm.blog.so-net.ne.jp/2008-08-28 私が見たのは四丁目の夕日
http://fcmfcm.blog.so-net.ne.jp/2011-06-06 銀座の元気は日本の元気
●勝鬨橋の今については、kurakichiさんの詳しい探訪記があります。下記へどうぞ。
http://joun.blog.so-net.ne.jp/2011-09-17#more
http://joun.blog.so-net.ne.jp/2011-09-18
次回「京橋」につづく
※安藤さんはパトカーに「武藤か」と呼ばれたと勘違いしたのでした。
新橋から日本橋へ① 「新橋」 [新橋・銀座・京橋・八重洲・日本橋]
新橋から日本橋へ。中央通りを歩くー①
新橋
●新橋 高速道路の向こうから銀座が始まる。手前は8丁目から、7.6.5.4.3.2.1丁目と続く。
新橋を起点に、
銀座の8丁目~1丁目までを貫いて京橋、日本橋まで一直線に続く中央通り。
昔から仕事で、あるいは休日に、よく歩いた。
●第1回は青い矢印の区間。
●新橋駅烏森口 下の写真も
下戸で食道楽でもないから、ほとんどは青天白日の元。
新橋や有楽町に残るガード下の飲み屋街は、
既視感のような懐かしさから親近感はあるが、
自分からカウンターや店の外にはみ出した椅子に腰かけることはない。
●うまい立ち食いの寿司屋がある。
ある日、仕事が一段落して昼時を迎えたころ、
相棒が「牛を安く食えるところがある」と連れて行ってくれた店、
それが新橋駅烏森口に店を構えたばかりの「吉野屋」だった。
間口は広く5間ほどもあっただろうか。
駅前広場のシンボルの蒸気機関車を背にして椅子に掛けると、客は満員。
頼んでから目の前に差し出されるまで、ものの数分。
料金は1ドル360円という時代の1コイン価格だったかも。
吉野家牛丼事始め……1,969年の事だ。
連れがいなければ体裁は全く構わない。空腹を満たせればなんでもいい。
それが1941・昭和16年生まれ。戦後の飢餓世代。
最近はご無沙汰だが、
「牛丼、並み、つゆだく、生たま」という棒読みの
リミットなオーダーの仕方も知っている。
もちろんサービスの紅ショウガと唐辛子は、山のようにぶっかける。
若い頃はそれも空腹の足しになるという感じだった。
なんでも安ければいい。量があればいい。用が満たせればそれでいい。
実用第一。それが価値基準。
とにかく量がほしい。質よりも量。
それが戦後の大量生産・大量消費の経済を支え、急速成長を促した。
自分も今では多少ましになったが、本質は変わっていないようだ。
●新橋駅前 東口?
●オフィス街の汐留エリア 明治5年に新橋ステーションが作られたところ。
下は1957年の同地区の様子。国鉄貨物駅の汐留駅と浜離宮公園間の道路際住宅の様子
いいものはいい。それは分かる。それが高価なのも分かる。
しかし、幸運にもお金があったとしても、それらは選外。
生活信条とか価値観とか言うまでもなく、
名品を身に着けたとしても、似合わないのを知っているから。
だから、いくつになっても貧乏性から抜け出せない。
それが分相応ということなのだろう、と思っている。
けれども、飢餓感だけはいつも、ある。
飢餓の度合いが深いほど、
些細なことをうれしく感じる。
ちょっとしたことでも、うれしい。
それをバネに、やってきたのかもしれない。
●銀座7丁目 左は資生堂ビル
この通りをまっすぐ向こうに歩くと、日本橋。
●銀座6丁目から振り返って、もと来た新橋方面を。
遠方に見える高速道路が、トップ写真の高速道路。
つづく