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新橋 サタデー・ナイト [昭和-平成、往ったり来たり]

P1030925b-3.jpg   昭和-平成 往ったり来たり

        新橋 サタデー・ナイト


年賀はがきも発売され、

街角のざわめきが次第に盛り上がる季節になりました。

今年のラストスパート。輝きの季節。
六本木ヒルズのけやき坂には
早くも白銀を思わせるクリスマスイルミネーションが灯ったことだし、

いざ、トップにギアチェンジして、
積りに積もった今年の憂さを払いましょうか。

                    お遊び動画 by sig
                    



 

富士通 STYLISTIC QH

東京駅復元で陽の目を見た、幻の壁面レリーフ。 [昭和-平成、往ったり来たり]

P1030925b-3.jpg  昭和-平成 往ったり来たり

        東京駅復元で陽の目を見た、幻の壁面レリーフ。


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101日、創建当時(1914T3)の姿に復元された東京駅。

すでに物見遊山の人々のにぎわいは納まったようで、

人の流れは速く、中央駅としての日常が戻っている。

その中で、私にはぜひとも確認したいことがあった。

それは、前にこのブログに書いた巨大壁面レリーフのことだ。

あれはこのたびの復元工事で、どう扱われたのか。

復元に当たった鹿島建設のホームページや駅の案内パンフレットのどこにも

その記載が見当たらない。

とても気がかりだった。

■以前の記事 2011.9.3掲出

 「4年前の新聞記事。その後が気にかかる」

  東京駅に埋もれていた、幻の壁面大装飾

  http://fcmfcm.blog.so-net.ne.jp/2011-09-03


戦後間もない1947S22)年。

ようやく再興したばかりの東京駅の内部に、

GHQの鉄道事務所が設けられることになった。

床面積は500平方メートルという大理石張りの広い空間。

延べ54メートルにも及ぶ三方の壁の高さは3.2メートル。

この巨大な壁面をどう飾るか。


そこで検討されたテーマは

新しい日本国始動に向けての国民の心意気を伝えたい、ということだった。


こうして実現したのが、石膏レリーフによる

全国の名所・特産を描き込んだ日本全図と、

江戸から京都までの名所を織り込んだ、東海道の旅の様子だったという。


進駐軍を驚かせたこの壁面レリーフは、

その後1970年代に、そのスペースが駅の事務室となった折に設置された

新しい壁面の後ろに隠されてしまった。


 

DSC01551.JPG

なんと、その巨大石膏レリーフが

復元を終えた東京駅に、見事に復活していたのだ。

ほぼ40年ぶりの公開。

場所は東京駅の南端近く。京葉線改札口に続く地下通路。

位置的には「東京国際フォーラム」に近い。


石膏レリーフは、最初から着色されていたものか、変色か

ほとんどチョコレート色だ。

けれども、そこには確かに

新しい日本に向けての旅立ちの気運が、色濃く漂っている気がした。


東京駅巨大壁面レリーフの話は、10年ほど前に
友人の父君から伺ったことが、私の興味の発端だった。
その方は当時GHQの通訳として、進駐軍にレリーフを紹介されていた。
それが十年程前、覆いの陰でほこりを被っている現場を訪ねて
何とか復活させたいと語っておられる記事が、新聞に掲載された。
頂戴したその記事は残念ながら7年前の転居で失ってしまった。
そして、その方は昨年90歳で亡くなられた。
再び展示されたこの姿を目にされたら、どんなに喜ばれたことだろう。




                                                                by sig

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八重洲側からだと京都から江戸への旅となる。

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日本全国のレリーフ 以下の写真は部分拡大

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関東

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東北

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中部 中央は東照宮

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駕籠で旅をする女性

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          20121022125037(1).jpg飛脚

             鎌倉の流鏑馬 20121022125554(1).jpg

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江戸の風景 富士山を背景に千石船の船出

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左は京葉線の改札。こちらからだと江戸から京都への旅となる。





●1ギガまで、あと7メガです。





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映画のまち調布市で「日活100周年」 [昭和-平成、往ったり来たり]

P1030925b-3.jpg  昭和-平成 往ったり来たり

        映画のまち調布市で「日活100周年」

           京王線記念乗車券発売と日活100周年企画展(企画展は10/21まで)

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このところ、東京・多摩地域の調布市が弾んでいる。

西が太秦なら、東は調布。

そう。東日本の代表的映画産業「日活」が創業100周年を迎えたからだ。


■日本最古の映画会社「日活」のあゆみ

「日活」つまり「日本活動写真株式会社」の創業は1912(大正元)年。

今回初めて知ったことなのだが、

その撮影所は、調布市多摩川の現在「角川大映撮影所」のある場所で、

戦前は「日活多摩川撮影所」と呼ばれていたのだそうだ。

では、「日活」と「大映」の接点は?


P1200684-2.JPG●角川大映撮影所 10/5撮影
                 P1200658.JPG        

「大映」つまり「大日本映画製作株式会社」は、
日活の製作部門、大都映画、新興キネマの合併により、
戦時中(1942S17)に創設された。

同社の撮影所は京都に2か所あり、調布の「日活多摩川撮影所」は「大映東京第二撮影所」
と呼ばれるようになり、戦後、「大映東京撮影所」となった。

その後1954年に、現在の調布市染地の「日活撮影所」が稼働開始。


調布市多摩川の「大映東京撮影所」は1950年代、
「日活」「松竹」「東宝」「東映」と並ぶいわゆる邦画5社として
日本映画の全盛期を華々しく飾ったのち、
紆余曲折を経て現在は「角川大映撮影所」となっている。

このくらいややこしい経緯が、この100年の間にあったのだ。


1958
年をピークに娯楽の王者として最盛期を迎えた日本の映画産業は、

その頃台頭したテレビに追われて、70年代には壊滅的な様相を呈した。

私が幸運だったのは、日本映画がいちばん充実していた時代に出会えたことだ。


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●京王線の「日活100周年記念切符」のたとうとサービス絵葉書

私と日活映画との出会いは1957年の石原裕次郎主演「嵐を呼ぶ男」からだ。

その前年、兄慎太郎(現東京都知事)原作「太陽の季節」でデビューした裕次郎は、
この作品で人気をゆるぎないものとし、日活青春映画路線の花形となった。


裕次郎と並行して人気があったのは小林旭の「渡り鳥シリーズ」。
諸国を渡り歩くやくざ稼業を現代に置き換えたシチュエーションは無国籍映画と呼ばれ、
のちの東映のやくざ路線や松竹の寅さんシリーズの先駆けと言えるかもしれない。

こうした男優陣に南田洋子、北原三枝、芦川いづみ、浅丘ルリ子といった新鮮な女優陣が
彩りを添えていた。

吉永小百合がデビューした頃は、洋画の大作に目が移り、日活映画とは縁遠くなっていた。
ハリウッドがテレビ対抗策としてブラウン管では見られない大型映画路線を打ち出し、
最後のあがきを演じているところだった。

P1200748.JPG●記念切符
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この夏の819日、地上駅から地下駅へと大きく転換したばかりの京王線調布駅では、
「日活100周年」に合わせて調布駅限定で記念切符3000セットを売り出した。

スターの似顔絵入りで4枚1000円分の切符が、日活100年の歩みを描いたたとうにとじ込まれ、ちょうど私が熱狂した日活全盛期を代表する青春映画3作品のポスター絵葉書が付いているのがうれしかった。

切符は10月末まで有効だが、この切符で乗車する人はいないだろう。


■点から面へ広げたい、映画による地域振興

日活100周年にちなんだ映画資料企画展が開催されているという新聞記事を見て、
「角川大映撮影所」に近い「調布市郷土博物館」を訪ねてみた。


P1200716.JPG●調布市郷土博物館

調布市は映画の街を標榜しており、博物館では大映、日活撮影所関連の撮影機材や編集機材、監督や出演者関係の資料、ポスター類などを所蔵しているのだが、
今回はそれらにプラスして、八王子在住の映画史研究家・畑三郎さん収集の珍しい資料が揃えられているということだった。

P1200731b.JPG●映画史研究家 畑三郎氏

P1200756b.JPG ●日本映画草創期の人気スター、目玉の松ちゃんこと尾上松之助の児雷也


目玉の松ちゃんの愛称で人気者だった尾上松之助、大河内伝次郎、片岡千恵蔵、
バンツマこと坂東妻三郎など日活草創期の男優・女優のブロマイド、映画ポスターやスチル、映画雑誌やシナリオ、プレスシート、そしてスターをあしらったメンコまで、
幼少からの映画好きが昂じて映画ジャーナリストの道を歩んでこられた畑さんならではの
貴重な収集物だった。


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P1200733.JPGP1200743.JPG


うれしいことに館の担当者の方の気の利いた計らいで、
その二日後、畑三郎さんとお会いすることができた。
博物館から場所を移し、
調布駅近くの「たづくり」のレストランで4時間もお話を伺うことができた。

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畑さんが60年以上かけて集めた資料は、段ボール箱で250個、10万点にも上るという。
然るべき映画資料館への寄贈も考えたが、収蔵されたままになってしまう傾向が大。
それでは映画という文化は伝わらない。また、受け入れが決まった自治体があったのだが、
収蔵の心配りや展示手法、そして何よりも映画に対する情熱に問題があり、
結局断念せざるを得なかったという苦い経験も伺った。


現在、畑さんの考えは、この資料を地域振興に生かすこと。

自治体関係では、各地の博物館、図書館などでの収蔵や所蔵品、書籍等とタイアップした企画展示。あるいは文化センター等での特別展示。

地域活性化企画としては、生徒が減少して閉校した学校、シャッターを閉めたお店が多い商店街などのスペースを利用した長期展示、常設展示など。


このような企画は机上の空論ではなく、実際に施設の年配者を動かして企画展示の運営に当たらせることで生涯学習や生きがいづくりにつなげたり、

今年2月には、大震災の被災地・宮古で「懐かしの映画資料展」を開催して喜ばれるなど、
具体的な実績を多く積まれた畑さんならではの具体性があり、
その展開アイディアの非凡さには舌を巻いた。

とにかく畑三郎さんとの時間は、同じ映画史を生涯学習のテーマにしている私にとって、至福の時間だったことは言うまでもない。

そしてもっとうれしいことに、
11月になったらお宅をお訪ねし、膨大な資料の片鱗を見せていただくことになった。


■「映画のまち・調布」を、より強固にするために

この日活100周年記念イベントは、今のところ京王線の記念切符と日活映画100周年資料展しか目につかない。つまり、<点>の展開に過ぎない。

現在の日活映画の拠点である同市染地の「日活撮影所」や、先に述べた「角川大映撮影所」などでは、日活100年に因縁の深い場所でありながら、大きな動きは見られない。

折角のチャンスなのだから、これを機に地域活動としてうまく連動させ、
<面>として拡大定着させることが大事、とは畑さんの弁。全く同感。

その意味で、私は調布市民ではないが、少し残念な気がする。


畑さんと別れて、私の頭の中は渦を巻いていた。

「映画のまち調布」のイメージを、より広く定着させること。

その裏付けとして、二つ揃っている映画撮影所。

更に、畑三郎さん収集の膨大な映画関係資料。

これだけの材料があるのだから、イメージだけではなく具現化できるはず。

P1200642-2.JPG P1200641-2.JPG
●調布駅地上部分解体工事
 ホームやレールが無くなり、新しい調布の核が生まれる。10/8撮影 


……と考えたら…あるではないか、最善の方策が!

現在、調布駅は地下化を終え、地上部分の整備が進められている。

新しい調布駅前が出現するのは2年後という。

地上の再開発がどう進められるのかは知らないが、何かの構造物が予定され、
それは新しい調布市の顔となるだろう。
それがイコール「映画のまち調布」のシンボルのはずだ。

そこは、日本映画に限らず最新の映画情報に立体的に接することができる場所。
例えば、スター、タレントと出会え、監督たちの話が聞け、過去の映画の上映も行われる。
そこに映画各社の機材や映画資料を集めた「映画総合資料館」ともいうべき常設展示スペースを設けるのだ。
 


これにより、調布の新名所としての「映画総合資料館」と、これまでの「調布市郷土博物館」「日活撮影所」「角川大映撮影所」による文字通り「映画のまち
調布」という<面>が出来上がる。更に、博物館そばにある「映画記念碑」を加え、年間にわたる連動企画を打ち出して人の動きを創りだしていけばいい。

とにかく、街を挙げて映画・映像のメッカとすることが必要なのだ。


これは突飛なアイディアだろうか。

とにかく、こんな文化的複合施設ができればうれしい限りだ。
(もし、すでにこのような企画が進められているとしたら、大いに期待したい)

P1200668-2.JPG●映画記念碑

★「調布市郷土博物館」での企画展示「日活100年と映画のまち調布」は10月21日まで。
   京王相模原線「京王多摩川」下車、徒歩5分。入場無料。
   ちょっと分かりにくいので、改札を出たら聞くといいでしょう。


★館内写真は畑三郎氏関連ブースのみ同氏の許可を得て撮影。


シモキタ、タソガレ。 [昭和-平成、往ったり来たり]

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           シモキタ、タソガレ。

        
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●小田急線と井の頭線のホームに掛かる跨線橋


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●「下北沢」南口駅前


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下北半島ではなくて、
ここは小田急線と京王井の頭線が交差する「下北沢」。

渋谷、新宿に近く、

ライブハウスや小劇場の街として文化・芸術の香りがするせいか

いつも学生たちでにぎわっていて、

おしゃれなショップやカフェ、レストランも多いのだが、

昭和世代にはむしろ、雑然とした駅周辺の様子が懐かしい。


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●井の頭線


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●小田急線


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●乗換え通路

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●街の雰囲気

立体的に複雑にクロスする2社のプラットフォーム。
古ぼけた駅の階段。

薄汚れたガード。
威勢のいい掛け声が響く食品市場。

曲がりくねった細い路地の両側に続く、昔ながらの商店街。


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●北口・食品市場

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●駅周辺の繁華街


テレビドラマや映画の舞台になり、

吉祥寺や自由が丘、原宿・竹下通りのようなファッションタウンとして語られることも多いようだが、

シモキタの空気は、そのどことも違う。

それは、その生い立ちに由来しているからに違いない。


 

駅周辺は戦後の闇市に端を発し、

1964年の東京オリンピックでも都市化は進まなかった。

その頃、下北沢はジャズ喫茶やアングラ芝居など

時代の流れに反抗するカウンターカルチャーのメッカであり、

ヒッピーと呼ぶ若者風俗が蔓延していた。

その空気は薄れたとはいえ、今もどこかで息づいている気がする。


1962.5.2.JPG  1964.10.10.JPG 
●銀座4丁目 三愛ビルの建設 1962.5.2 ●東京オリンピック 1964.10.10

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●超高層の曙、霞が関ビルの建設 1968.11.15

※以上3点、毎日新聞社「昭和史全記録」より


 

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このゴミゴミとした情景は、戦後からのもの。

まさに昭和の残影。

そんなムードが懐かしくて、時々訪れる。


 

ここで好きな時間は、初秋のたそがれ時。


※「下北沢」は駅名で、地名としては北沢2丁目になります。


 

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P1200567.JPG●「本多劇場」


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●本多劇場系「劇・小劇場」

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●駅から徒歩15分。伝統ある劇団東演の「東演パラータ」


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●「東演パラータ」の真向かいはkurakichiさん御用達の「珈琲・邪宗門」
 (残念ながら木曜定休でした)




長岡大花火の「大」には、特別な意味がある。 [昭和-平成、往ったり来たり]

P1030925b-3.jpg 昭和-平成 往ったり来たり

        長岡大花火の「大」には、特別な意味がある。


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●2005年からプログラムに加わった、復興祈願花火「フェニックス」

いつも、8月は暑い上に電車が混むから、と真夏の帰省をパスしてきたのですが、
今年は墓参を兼ねて、久しぶりに「長岡大花火(おおはなび)」を観に帰りました。


長岡花火は「長岡まつり」の一環として、

毎年8月2日と3日の2日間、大河信濃川の中州で打ち上げられます。


長岡花火は終戦後、長岡大空襲被災者の鎮魂と焦土の復興を願って打ち上げられたもので、
観光を意図したものではありませんでした。
★関連記事 http://fcmfcm.blog.so-net.ne.jp/2012-05-25


平和な時代になって長岡花火は、世界の平和を願うようになりました。

同時に、信濃川の広い河川会場を生かして、
尺玉と呼ばれる直径30cm以上の大型花火をふんだんに揚げる大花火の名所として
注目されるようになりました。


特に直径90cmの「正三尺玉」と、
長生橋の橋げたを光の滝に変える「ナイアガラ」の人気は高く、
更に「ベスビアス」に代表される各種の「超大型スターマイン」が加わって、
長岡大花火を象徴する定番プログラムになりました。

長岡花火は、もはや Fireworks というよりも、
日本語の文字通りに、大空に大輪の花を咲かせるFlower-Fireと呼んだ方が妥当かもしれません。


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●正三尺玉(直径90cm 重さ300kg
)の内部
 東京スカイツリーとほぼ同じ600mの上空で、
直径650mもの大輪の花を咲かせます。        20120802203433(1)-2.JPG 
 

 

ところで長岡は、
19646月・新潟地震(M7.5)、20047月・信濃川水系大水害、同年10月・中越地震(M6強)、20077月・中越沖地震(M6.8)…と大きな災害に見舞われました。

長岡花火はそのつど犠牲者の鎮魂と早期復興への願いを込めて打ち上げられ、

中越地震の翌2005年には、復興祈願の超大型スターマイン「フェニックス」が誕生しました。


冠に「超」が付くこれらの大型花火が、
どれほど市民を元気づけたかは言うまでもありません。
長岡花火は、不屈の<長岡魂>を奮い立たせる起爆剤でもあるのです。





                                                                                                                                          Camera by sig

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●2009年からプログラムに加わった「天地人花火」の3分間に及ぶ光の七変化

                                                         
その後の長岡大花火は、更に拡大の一途をたどります。


2009年からはNHK大河ドラマの世界を大型花火で表現した「天地人花火」が加わり、
今年83日には、
長岡を舞台にした大林宣彦監督の映画「この空の花-長岡花火物語」公開にちなんだ
同名の超大型スターマインも打ち上げられました。
それは、これまでの大型花火に勝るとも劣らない見事さでした。
この超大型スターマインが長岡花火の定番に加わるとしたら、
「長岡大花火」の魅力は更に増大するでしょう。
ぜひ、そうあることを願っています。

●映画「この空の花-長岡花火物語」関連記事
 http://fcmfcm.blog.so-net.ne.jp/2012-05-25
 


●8/3に映画にちなんで初めて打ち上げられた「この空の花」  bea photoさんのYOUtubeからお借りしました。

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ところで、長岡市の最近のビッグニュースは、
今年32日(日本時間では3日)に実現したホノルル市との姉妹都市締結です。


194581日、B29の大空襲によって壊滅的被害を受けた長岡市。
その発端は日本の真珠湾攻撃で、ホノルルも被害甚大。
それを企図した山本五十六は長岡市の出身。
その縁で長岡市は日米友好の象徴的な形として、
かねてからホノルル市といろいろな形で交流を図ってきたのですが、
それがはっきりとした形でようやく実現したのでした。


その記念にワイキキビーチの沖合で打ち上げられたのが長岡花火でした。
日米友好と世界平和を願う長岡花火のメッセージは、
浜辺に集まった人たちに深い感銘を与えたことでしょう。

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                        ★記事参考/「長岡の大花火'12 オフィシャルガイド」

デジカメオンライン

東京-有楽町/イラストタッチの動画でどうぞ。 [昭和-平成、往ったり来たり]

P1030925b-3.jpg 昭和-平成 往ったり来たり

     東京駅→有楽町駅、昭和散策。

      絵になるガードを、イラストタッチの動画でどうぞ。


シーケンス 01-2.JPG●東京駅

    ●有楽町駅シーケンス 26-2.JPG


都心を走る電車の路線で、

今でも「昭和」の色彩を色濃く残しているのは、山手環状線のガード。

当時のままの煉瓦づくりのアーチは、古びていればいるほど

戦後の様子を知る世代には、強い郷愁を呼び起こす。

中でも、東京駅から有楽町駅にかけて。

伸び上がれば有楽町駅手前の東京国際フォーラムが望める

たった500mほどの一駅区間を、用事のついでに散策してみた。

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まもなく復元工事を終えて全館開業を目指す東京駅。

そのお膝元が、ハトバスのターミナルというのもうれしい。

東京に出たばかりの頃は、ハトバスで東京見物をしてみたかったものだ。

今はスカイツリー観光と、屋根なしオープンバス。

それにギンギラ車体のキティバスが人気のようだ。

ガード下には和食からイタリアンレストランまでこぎれいな食事処が並び、

昼時に近いこともあって、これから人出が増えるころだ。

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途中にある鍛冶橋ガード。

この広いガードの近辺は、昔のよすがをいちばん残していてとても味わい深い。

煉瓦塀に残る千切れた張り紙。自転車の数々。

その下にはこれまた昭和30年代そのままのリヤカー屋台が数台。

夜は昭和そのもののはしゃいだ時間が流れるのに違いない。

その真上を走る超モダンな新幹線。

この、新旧対比のキッチュな風景こそ、ある種のモダニズム?

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                    シーケンス 116-2.JPG

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鍛冶橋ガードをくぐり、ガード沿いに有楽町に向かう。

「ほんものの味」と表示した氷屋さんがまだ健在だ。

氷で冷やした木製の冷蔵庫を思い出す。

「ミルクワンタン」…。思わず味わってみたくなる。

これなどきっと、昭和そのものの味なんだろうなあ。

残念ながら営業は夜らしい。

近くに停まっている車は、ベンツ。

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再びガードをくぐり、東京国際フォーラムへ。

このガード下のタイ料理屋さんは、

場所柄、丸の内レディの御用達でもあるらしい。

昔と今の接点がこんなところにあることが、どこかうれしい。

東京国際フォーラムは昔の東京都庁の跡地

と知っている人たちの方が少なくなってしまった。

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東京国際フォーラムの中庭にはたくさんの屋台が。

都心に屋台…という、一見ミスマッチと思われるものが見事になじんで、

リラックスしたお昼時の、ゆったりムードを醸し出している。

ここから有楽町駅は目と鼻の先。

有楽町のガード下にも、捨てがたい昭和の空間がある。

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